【愛知県・名鉄三河線-“山線”廃線-1】西中金駅〜
愛知県の真ん中を南北に横断している名鉄三河線。
豊田市の西中金駅から、吉良町の吉良吉田駅までを結んでいました。
この三河線は、途中の知立駅を境に、北を「山線」南を「海線」と言う事があります。
今回はその「山線」の廃止区間、猿投(さなげ)駅から西中金駅の間の廃線跡を見て来ました。
青字…ラピスのコメント ■黒字…作者のコメント
 
 「山線」って言う通り
 猿投駅から向うは、山の中・森の中を走ります。
 2004年に廃止されてから3年経った、
 2007年5月に探索して来ました。
 廃止後たった3年で、
 廃線らしい景色になってました。

 廃線の地図はこれ→■周辺図■

 出発点はここ、かつての終着駅「西中金駅」
 木造の小さな駅舎と短いホームが
 一面あるだけの、こじんまりとした駅です。
 駅前を通るのは国道153号線。
 手前方向に行くと
 紅葉で有名な「香嵐渓」に辿り着きます。
 おかげで紅葉シーズン中は大渋滞。
 こまったもんです。
 さて、廃線跡ですが、寂れてますねぇ。
 しかし、現役当時からこんな感じでした。
 ゆえに赤字で廃止されたんですけどね。
 トカゲの尻尾切りみたいに、
 路線のはじっこが切り捨てられました。
西中金駅

 駅舎を正面から見るとこんな感じ。
 木造なのにあんまり風情が無いですね。
 西中金駅は1928年、昭和3年に開通したので、
 この駅舎も昭和3年製だろうか?
 屋根はトタン屋根だけど、
 昔はちゃんと瓦屋根だった。
 駅名表示も右側の入口の上にあったが、
 廃線前までは正面玄関に付いていた。
 今となっては、駅前のスペースは
 隣のコンビニの駐車場みたいになってる。
現役時代/2004年3月

 そうそう、こんな風に駅名が付いてました。
 これは廃線直前の様子。
 沢山の人が、最後だというので
 乗りに来ていました。
 廃線が決定された後に
 乗客が増えるという、
 皮肉な現象です。
 いつもこれだけお客がいたらなあ… と
 地元の人々は思った事でしょう。

 2004年3月の様子です。
 この1ヶ月後に廃止されました。
 
 駅舎の中はご覧の有り様です。
 改札は塞がれてるけど、
 昭和60年に無人化されたと言うので、
 ずっと塞がれていたのかも?
 それにしても、なんで古い木造建築って
 真っ白にペンキを塗るんだろう?
 改札の上にあった時刻表は
 すでに取り去られてます。
 

 ホームの上から猿投駅方面を見てみた。
 今でも列車が来そうな雰囲気・・・
 には見えないか…
 レールは輝きを失い、
 草ぼうぼうです。
 すっかり廃墟と化してます。

 右の空いたスペースは、
 もう1本線路があった跡です。
 廃線前にすでに、規模縮小されてたのです。

 
 これは線路の本当の終点。
 ここでレールは途切れてます。
 でも、おかしいでしょ?
 終着駅よりも先に線路が続いてるよね。
 それもそのはず。
 ここから「香嵐渓」のある足助まで
 線路を延ばす予定がありました。
 しかし残念な事に、
 戦争のおかげですべてパーに・・・
 今では鉄道が通るはずだった未成区間が
 市道として残ってます。
 

 では、猿投駅方面に向って
 歩いてみましょう。
 線路はぶっつりと途切れてます。
 ここは公道と言うより参道です。
 右側には神社がああります。
 これって鉄道が出来る前の状態に
 戻ったって事ですね。
 鉄道は集落を少しはずして敷かれるので、
 村はずれの神社を横切ったりする訳です。
 …たぶん

 
 神社の前からいったんあぜ道?に
 上がってみました。
 なんか、線路を通すために
 田んぼとか潰してそう。
 
  線路内に倒れる踏切警標クン。
 「止まれ←見よ→」
 なので、ちゃんと止まって見てあげました。
 そういえば、線路脇に等間隔に並んでる
 金属製の“塔”は何だろう?
 架線柱ですか?
 でもここってディーゼル車が走ってたよね?
 ちょっと調べてみよう。
 昭和60年に合理化のために
 電車からディーゼルカーになったそうです。
 と、いうことは、
 やっぱりこれは架線柱ですね。
 
 こんな風に2つ並んで残ってます。
 現役時代からこんな状態だった訳だ。
 撤去も出来ない程の
 赤字だったのかしらね?
 今後も残るのかもしれない。
 
 線路沿いには、
 お地蔵様が立ってました。
 線路に背を向けてます。
 昔から村はずれに祭られてたと言うより、
 近代になってから建立されたみたいです。

 バックの雲が気持ちいい。
 
 築堤は徐々に高さを増して来て、
 ついに、こんな高さまでなりました。
 この先は山の中を進みます。

 廃線跡を田畑に戻す事はないのだろうか?
 ここから見えるだけでも、
 結構な広さの畑になりそうだ。
 
 森が目の前に迫って来た所で、
 何やら異変が…
 こんな所にフェンスです。
 今までの名鉄が置いた物と
 あきらかに違います。
 これはこの辺りの地主の人が
 廃線跡から侵入されるのを防ぐために
 設置したものでしょう?
 でも、この線路跡って名鉄の土地じゃぁ・・・
 しかたないので、下に降りようと思ったけど
 築堤と道路の間にもフェンスが・・・
 ―って築堤も名鉄の土地でしょっ!
 
 だからと言って、
 フェンスを押し倒して進むわけにもいかず、
 ここを迂回して再び廃線跡を辿ります。
 西中金駅から国道を西に行き、
 サークルKの所を右折し、
 さらに右折してしばらく走ると、
 小さな鉄橋が見えて来ます。
 右に行けば終着・西中金駅。
 左に行けば次の三河広瀬駅。

 まずは右側の斜面を上がって、
 西中金駅の方に戻ってみます。
 
 人里が近いといえど、
 なかなかに深い森の雰囲気があります。
 ここにも架線柱跡があった。
 廃線後3年じゃあ、
 そんなに薮になってないです。
 少し歩いて来ると、
 見えて来ました、1つ目のトンネル。
力石トンネル

 これは「力石トンネル」
 全長40m程の短いトンネルです。
 なかなかにいいムードです。
 トラ柵で塞がれてるのは、
 まあ、しかたがないですね。
 
 近くで見てみるとこのトンネル…
 ブロックが積まれてるような…
 これはコンクリートブロックだ!
 昭和初期の建築物には、
 コンクリートブロックを使うのが、
 流行ってたのだろうか?
 無表情なコンクリートのトンネルを
 想像してただけに、
 これはめっけものです。
 アーチの迫石も2重のブロックです。
 
 内部も上半分がコンクリートブロックだ。
 このトンネルが造られた
 昭和3年当時はまだ、トンネル内部の全てを
 コンクリートで造る技術が未発達だったので、
 ブロックを積んで造ったのでしょう。
 特にアーチの部分は、
 コンクリートの厚さが揃えるのが
 難しかったそうです。
 
 40mなのでもう終わり。
 どうやって入ったかは秘密。
 これはあれですね、魔法?
 いやまあ、現地に行けばわかる事ですが…
 取り敢えず私の立場的には、
 立入禁止の場所には入らないでクダサイ・・・
 って言っておかないと( ̄▽ ̄;)

 それで、扁額や銘板とかは無かったので、
 トンネルの名前はわからなかったんだけど、
 後から調べたら「力石トンネル」って
 わかった。
 
 「55」の標識が。
 これは制限速度?
 今列車が走ったら、竹とかにぶつかりそう。

 ここまで薮はたいした事なかったけど、
 上から竹が覆い被さっていて、
 しゃがんでくぐった。
 これからもっと薮が酷くなるの?
 ってトコで前がひらけてきた。
 
 と、いう訳で森を抜けました。
 家とか見えるので、
 ここはもう国道の近くかと。
 
 ここから50mぐらい行くと、
 あの例のフェンスが…
 こっちからは入り放題だよ?
 まあ、普通の人はあんな廃線
 歩いたりしないからね。
 で、いったい何のためのフェンスなんだろう?

 さて、これで“小さな鉄橋”までの
 探索は完了です。
 次は三河広瀬駅に向って廃線跡を歩きます。

[2007年5月現在]

赤字ローカル線にありがちな、自動車にお客を取られたのが廃止の理由でした。
集落を通る廃線跡は、レールの錆び以外は、今でも列車が走っていそうな雰囲気でしたが、
山の中では、たった3年しか経っていないにもかかわらず、森に帰りつつあります。

参考文献:JTBキャンブックス「名鉄の廃線を歩く」
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