【岐阜県東白川村-黄瀬橋】
岐阜県東白川村の旧道にある吊り橋です。
青字…ラピスのコメント ■黒字…作者のコメント
 
 国道256号線を走ってる時に
 橋があった跡と、
 そこにつながる旧道を見付けました。
 あ。旧道だ。って見てたら
 よさげな吊り橋が・・・

 今日はツーリングだけのつもりで
 でっかいバイク、ニンジャ君で来ましたが、
 突然吊り橋を見たくなったので、
 ツーリングを中止して
 ちょっと寄ってみました。
 写真はその旧道。
 現道は左側です。
 古い道らしく、石仏と祠があります。
 どこかから移したみたいだけど。
 ユンボがあるのが何だか奇妙だね。
 
 で、今回の吊り橋はこれ。
 旧道から対岸の畑に行けます。
 その先にも道があるけど、
 地図を見ると国道より古い道に思えます。
 だとすると国道側の集落に渡る為の
 橋だったのかもしれません。
 調べてみたら、
 明治時代にはすでに橋があったそうです。
 
 さて、橋は民家の間にあります。
 現地では名前が分からなかったけど、
 「東白川村誌」に名前があった。
 「黄瀬橋」だそうです。
 なんともアッサリなデザインね。
 黒川の吊り橋杉田屋橋
 同じタイプの構造です。
 無論これは明治に造られた物じゃないよ。
 
 やっぱりありました。
 人数制限看板。
 1人? 2人以上?
 看板には元々「1」と書いてあったけど
 後から「2」と書いた紙が貼ってあります。
 結構頑丈そうなのに、
 渡れる人数が思いのほか少ないです。
 
 床は金属製で丈夫そうに見えます。
 欄干も金属のパイプで
 ネットが張ってあります。
 結構長い橋ですね。
 「東白川村誌」情報では、
 これで54mあるそうです。
 下を流れるのは白川です。
 
 ちょっとケーブル部分のアップも…
 黒い。
 と思ったらカバー?
 じゃなくて黒い塗料みたいだ。
 しかもはがれて
 下から錆びたケーブルが見えてる。
 これって錆び止め?
 止まってないけど( ̄▽ ̄)
 
 対岸まで渡って来ました。
 普通程度に揺れたかな?
 見に行ってからレポート作成まで
 半年近い時間が経ってしまったので
 よく覚えてません。
 2回も行ったのにねぇ…
 今回は2011年ですが、
 2008年5月にも訪れてます。
 レポートに2008年の写真も混ざってます。
 上から2枚目なんかがそれですね。
 
 橋を渡った先は、
 小さな集落と県道72号線が通ってます。
 橋のすぐ前は畑です・・・
 が。何か臭います
 って言うか…とてもクサイです
 え?なにごと?
 画面右側に作業小屋みたいなのがあるけど
 土砂が積まれている・・・
 これって… 堆肥なんですか?
 つまり、発酵してる家畜のうんこ…
 
 今時の農業は化学肥料とか使ってるので
 馴染みが無いのですが、
 昔は畑や田んぼの近くに
 「こえだめ」と言う物があって、
 香ばしい匂いをさせてたもんです。
 子供が片足突っ込んで大変な事に…

 あ。写真はアンカレージです。
 いも畑になってます。 
 
 そういえば
 耐風索という物が見当たりませんでしたが、
 横から見たら真下に付いていました。
 遠目には見えないなんて、
 何と言うコンパクト設計。
 水面から近い場所に架かってるけど、
 洪水の時なんかは大丈夫なんだろうか?
 
 橋のたもとにこんな物があったけど
 庚申とか水神なのかな?
 文字は「光明童子橋守護」
 裏には「明治四十四年三月吉日□□」
 光明童子とは初めて聞いた名だ。
 橋の守り神っぽいですね。

[2011年10月現在(2008年5月)]

明治時代以前から架かっていた黄瀬橋は、最初は投げ渡しの1本橋でした。
明治末期から大正初期にかけて、東白川村内で何本かの吊り橋が新設されました。
黄瀬橋も、大正1年12月に吊り橋に架け替えられました。
昭和45年5月には、全長54m、幅2mの物に再び架け替えられました。
「東白川村誌」では、木構吊り橋と書かれていますが、
現在の黄瀬橋には木造部分が無いので、近年に橋桁が造り直されたのかもしれません。

昔この橋から幼児が落ちるという事故があり、橋のたもとに建てられたのが、
「光明童子橋守護」の供養塔です。
光明童子とは弁財天の眷属の十六童子の一人で、
右手に川舟と荷車の綱を持ち、左手に宝珠を持つ姿で現されるそうです。
この供養塔に彫られた「光明童子」が、十六童子の一人の光明童子なのかは分かりませんし、
子供の供養との関係も分かりません。
一般的に子供の供養には、地蔵菩薩を建立するものですが、
この場合は、死者の魂を祭り上げて、橋を守る神としたのかもしれません。
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