【国道158号線旧々道-軽岡隧道】
軽岡峠には現道の軽岡トンネル、旧道の新軽岡峠、そして廃道の旧軽岡峠の3世代の道があります。 さらに東海北陸自動車道の軽岡トンネルも加えると、実に4本の道が峠を越えている事になります。 青字…ラピスのコメント ■黒字…作者のコメント |
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かつては人や馬を苦しめた軽岡峠。 標高は1143mもあり、 冬には決死の覚悟で通ったと言います。 近代になり隧道も造られたけど、 やっぱり険しい道だったのでしょう。 春になり、雪も融けたので うわさ?の軽岡峠に行って来ました。 まずは地図で位置を確認→■周辺図■ |
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軽岡峠と言えば、だいたい高山市の中心地と 同じ位の緯度にあります。 高山方面でも雪が無くなったので、 ゴールデンウィークに行ってみました。 天気も良くて、暖かくて、 まさに道活動日和だ。 さて、国道からしばらく走ると 旧軽岡峠への道が現れます。 むろん、右に行くダートの方です。 こちらは六厩(むまや)地区の入り口。 |
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もうすっかり林道と化した道を進むと 東海北陸自動車道の軽岡トンネルを越えます。 これから捨てられた峠に行くのに、 ちょっとだけ近代的な景色を眺めて行きます。 おお〜、車が流れている。 これから家族そろって遊びに行くのかしら? 私は捨てられた峠に行きます。 ここを最後にしばし文明とはお別れ。 |
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さっきまで路面は雨水で削られて 岩盤が剥き出しになってました。 道は再び歩きやすくなって、 森の中に入って行きます。 こんな所は余裕だね。 何百メートルかはこんな具合で、 ちょっとしたハイキングのようだった。 ・・・しかし |
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雪じゃん! Σ( ̄□ ̄) しかも道の上に残ってるよ! えぇ〜? 私も決死の覚悟が必要? って、そんな訳ないか。 それは明治以前の話でしょう。 とは言え、ちょっと大変そうだ。これ。 雪の上に足跡が無いので、 今年は私が一番乗りみたいです。 あ。でも、シカの足跡があった。 |
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100mかそこらで残雪ゾーンはお終いでした。 |
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上を見上げればこれから通
る道の 石垣があります。 だんだん薮が酷くなって来て、 道がわかりずらくなってきた。 夏は雑草に埋没してそう。 こういう物があれば迷わなくて安心♪ 今は5月なので、 まだ植物の勢いが弱くて大丈夫だけどね。 |
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薮じゃん! |
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再び大雪。 遭難しそう。 “そうなんですか?” とスルーされそう。 冗談はさておき、まだ雪が残ってます。 先の方を見ると何やら今までと 雰囲気が違います。 これは・・・峠が近い? 道が右側に回り込んでいき、 その先には… |
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軽岡隧道の姿が。 これかぁ。 隧道の上の山が崩れて、 隧道を押し潰しているらしいけど、 雪で隠されてしまってます。 隧道の前の広場は雪景色。 これはこれで珍しい画像かも? 右側には石垣がありますが、 それ以外は雪のおかげで見えません。 ちなみに正式名がわからないので 「軽岡“隧道”」って事に… |
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取り敢えず隧道に行ってみましょう。 ポータルが無い様に見えるけど、 崩れてしまったんでしょうか? それに、コンクリートの中に、 木材が入ってるね。 何だろうか。鉄筋の代わり? ■コンクリートの中の木材は、 コンクリート打設の際に埋め込まれた 木製の支保工だと思われます。 トンネルに使われる鉄筋は、 放射状に組まれるので、 木材で代用した物とは考えられません。 |
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天井に穴が開いてる。 ここから土砂が流れ込んだんだ。 今は雪まで入って来てる。 分厚いコンクリートなのに穴が開くなんて、 信じられませんね。 この隧道は昭和34年7月までは 現役で使われていたそうです。 しばらく人の通行があったとしても、 廃道化して40年は経ってるのかな? よくわからないけど、それ程長い間 この場所で風雪にさらされ続けてたので、 こんなになってしまったのでしょう。 |
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壁がずれてます。 断面は土みたいだけど、コンクリートですね。 昔はコンクリートの事を 「混擬土」と言ってました。 確かに“土”みたいに見える。 目の前の細い枝は、 天井を支えてる訳ではありません。 そんな事より、隙間があります。 ・・・ 入ってみる? |
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意を決して狭い隙間に入ります。 せ・せまい。 体を斜めにして何とか侵入成功。 その途中で外の景色を撮ってみました。 案外余裕はあったかな? いえいえ、今壁が崩れたら 挟まれてしまいます。 だから出来るだけ素早く通過だ。 |
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中は広〜〜い。 外からは想像出来ない広さがあります。 これは意外。 こちらも土砂が流れ込んで来て塞がってます。 軽岡隧道は100mぐらいあるそうですが、 いったいこの先はどうなってるのでしょう? 今回行くのはちょっと無理ですが、 向こう側のポータルは、 こちら側よりはましな状態の様です。 |
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天井までぎっしり土砂が詰まってます。 まあ、隙間があっても どうにもなりませんけどね。 この隧道は明治時代に掘られた物で、 素堀りで木枠だったそうです。 今は改修されて広くなってますが、 その当時、峠にはムジナが住んでいて、 隧道を通る人に悪さをしてました。 通行人に「オイオイ」と呼び掛けたり、 石を落とす音をさせたりしたって言います。 「天狗だおし」と同類ですね。 ・・・「荘川村史」に載ってる昔話です。 |
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でも、そんな話があるって事は、 この峠周辺は崖崩れが多いって事ですね。 実際、旧道沿いの崖を見ると あちこち崩れてました。 この隧道の有り様を見ればわかりますね。 この付近は風化した花崗岩で、 道の途中には砂岩も見られました。 隧道の中に積もったのは「まさ」みたい。 「まさ」とは風化で砂になった花崗岩です。 コンクリートの方は大丈夫だろうか? 壁くずれてるよ。 ちなみに壁を上下に分ける境い目があるけど、 「スプリングライン」って言います。 |
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今までの写真はフラッシュを使ってるので、 壁がきれいに写ってますが、 実際はこんな感じ… コンクリート鍾乳石がたくさんある。 石灰の成分がしみ出してるんだ。 入り口の壁もこんな状態なので、 潜り込むのに躊躇しました。 だって、触りたくないよね。これ。 |
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閉塞している所から入り口の方を撮影。 あらためて見ると結構広いです。 車が楽に通れる幅があります。 のちに「新軽岡峠」を通る道が出来たので、 これでも不便な峠道だったのでしょう。 しかし、その「新軽岡峠」も 現在では旧道になってしまいました。 で、今回は隧道を紹介した所までです。 反対側の廃道は、さっき通って来た道の 倍以上に酷い、荒れ放題の道です。 [2006年5月現在] |
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軽岡峠の歴史は豊臣秀吉の時代までさかのぼります。 江戸時代には飛騨地方が幕府直轄領になり、高山との往来が盛んになりました。 その頃に軽岡を通るルートが拓かれ、峠のある荘川村は政治的な要所となっていきました。 しかし、南の郡上には3泊4日で行けたそうですが、 距離的にあまり変わらない高山へは、4泊5日掛かったと言い、道の険しさが伺い知れます。 そんな軽岡峠も明治36年に改修され、隧道もこの頃に造られたようです。 最初は「木枠のトンネル」だったそうで、馬車が通れました。 さらに隧道は改修され、広いコンクリートの隧道に生まれ変わりました。 この改修はいつ行われたのか? 現在詳しい資料が残って無いそうですが、 内部の全てをコンクリで造られるようになったのが、昭和10年代と言いますから、 軽岡の隧道も戦前には、コンクリート化されたのかもしれません。 そんな軽岡峠も、昭和34年に御母衣ダム建設のために開通した新道のおかげで、廃道になりました。 ● 明治の頃、民族学者の柳田国男も通った軽岡峠。 かつて「辞職峠」とも呼ばれ、高山を経て赴任して来る教員や行政官が、あまりの山深さに恐れをなして、 辞任の決意をして引き返す人が多かった。と言う話があります。 それ程までに難所だった軽岡峠の道。しかし現在はそれ以上の難所なのかもしれません。 ■ 後日、反対側の「三尾河(みおご)」からも入ってみました |
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