【長野県・阿智村-赤子橋】
信州の架け橋さんが見付けた渓流に架かる吊り橋。それは素晴らしい景色の中にありました。
青字…ラピスのコメント ■黒字…作者のコメント
 
 始めて見たその姿は、
 森の中に架かる
 よく揺れそうな感じの橋でした。
 これはぜひとも渡ってこなければ!

 場所は長野県の阿智村と飯田市の
 境い目近く。
 清内路の山奥にあります。
 黒川の川沿いの道を進んで来ました。
 国道から3kmぐらいの所で
 いきなりアスファルトが途切れて
 道が無くなってしまいました。
 これは林道と言うより遊歩道ですね。
 この道であってるのだろうか?
 
 あ。何か立て札がある。
 何々…「赤子ヶ淵まで0.5km」
 お。ここで間違いないようですぞ。
 目的地は500m先になります。
 バイクでも行けそうに見えるけど、
 ここは素直に歩きで行きます。
 
 山奥に分け入る遊歩道だけど、
 どんなにヘビーなロードなんでしょう。
 って思ったら
 なんだ、歩きやすそうな道だ。
 ところが右側のヤブ…
 道のこちら側は急斜面になってます。
 うかつに足を踏み外したら
 激薮の中を滑り落ちてしまいますよ!
 思わぬトラップ?です。
 ちょっと緊張します。
 

 1ヵ所遠くまで見渡せる所があった。
 対岸の山がきれいに見えます。
 むろん目の前の薮の下も急斜面です。
 ここの冬の写真を見たけど、
 草が枯れて、
 モロに斜面が剥き出しだった。
 さすがにそんな時期に歩くのは
 遠慮したいものです。

 
 もう少し歩くと
 今までずっと下の方にあった黒川が
 すぐそこに見えるまでになりました。
 この辺は安心して歩けます。
 森に入って行くみたいだ。
 まだ着かないんだろうか?
 

 あ。あったあった。
 これよこれ。
 ここが赤子ヶ淵ですね。
 何かの伝説がありそうな名前だ。

 
 素晴らしいロケーションに
 架かる橋だけど、
 主塔はあっさりした鉄骨組みです。
 赤く塗ってあります。
 赤子ヶ淵だから?
 

 こんな山奥にある橋だけど、
 名前が大きく書いてあります。
 何と!500kgまで大丈夫ですと?
 これも金属製主塔の為せるワザでしょうか。
 木の床板なのに、すごい事です。

 
 木の床板だけど、
 割れたり、歪んだり、剥がれたり
 腐ったりしてません。
 流石にちゃんと管理はされてるようです。
 では、渡ってみましょう。
 揺れ方は普通です。
 それに、橋の上から見る
 景色が素晴らしい。
 
 まず右側を見ると、
 しぶきを上げて流れる川の景色です。
 見晴らしが良いと言う訳じゃ無いが、
 いろんな要素が
 コンパクトにまとまってます。
 
 左側もいい景色です。
 こちらは穏やかな流れです。
 山の中の渓流っていえば
 大抵岩が転がってるものだけど、
 ここは砂が溜ってる。
 花崗岩が風化して出来た砂でしょう。
 調べてみたら1億年ぐらい前に出来た
 花崗岩だそうな。
 
 景色を堪能しながら
 対岸まで来ました。
 
 こちらは主塔からスロープになってます。
 と、言う事はこの橋は
 2径間の吊り橋ってことですね。
 ここから見ると、
 森の中に架かる吊り橋みたいだ。
 
 遊歩道の続きがあったので行ってみた。
 そしたら…川?
 黒川に合流してる
 小さな渓流に出ましたよ。
 地形図で見ると
 この渓流が阿智村と飯田市の境界です。
 今立ってる場所は、飯田市になります。
 
 渓流の所から河原に下りれました。
 中々に高いです。
 橋桁の下は鉄骨がクロスして
 ガッチリと床板を支えてます。
 いやぁ〜〜思ったより
 素晴らしい吊り橋風景でしたね。
 しっかり堪能した事だし、
 もう帰りましょうか。
 

 少し離れた所に
 遊歩道から川に下ってく道があったので
 ちょっと見に行って来た。
 そしたら、こんな光景が…!!
 赤子ヶ淵と赤子橋がいっぺんに見れる
 最高のビューポイントですよ!
 背景の木々も色付き始めて
 あと2週間ぐらいしたら
 素晴らしい紅葉が見れるはずです。
[2012年10月現在]


谷の奥まった場所にあり、小さな滝が連なる赤子ヶ淵。
その赤子ヶ淵には悲しい伝説が伝わっております。
時は戦国時代にまでさかのぼり、織田信長が覇業を成し遂げようとした16世紀の話です。
・・・
天正10年2月、信長が仇敵の武田信玄を討伐するため、伊那谷に侵攻して来たが、
武田氏の信濃支配の一大拠点でもあった飯田城は総崩れとなり、
下伊那の豪族であった飯田城の城主の坂西氏は、再起を掛け木曽谷に脱出した。
しかし、途中で敵に襲われ絶命。その際に家臣2人に幼い嫡男を預けた。
山中を迷いながら清内路の鳩打の道に出た所で、追っ手らしき声が聞こえたので隠れた。
だが空腹と疲労の為、若君は息絶えてしまった。
それにより、十六代三百数十年続いた飯田城主坂西家も、廃絶してしまったのである。
その後、隠れた淵の辺りでいつも赤子の泣き声がすると言われ、
誰となくここの淵を「赤子ヶ淵」と呼ぶようになった。
・・・
と言うのが、調べてみたおおよその内容です。
伝説にしては、具体的な人物名が出て来ましたが、ここでは省略しました。
儚くも幼い命を散らした若君は、延千代だと伝説は伝えています。

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